1月第3週京都にて

中学生の時から愛読している本の1つに川端康成の古都がある。

古都の作中では祇園祭時代祭など色とりどりの京都の晴れ姿が描かれる。

中高生の僕は京都のケの中に過ごしていたからこそ、古都の輝きはこの小説の中でしか見られないことがわかって、なんどもこの本を手に取ったのだろう。

もし、古都の世界を期待して今の京都に来る人がいれば、きっと幻滅してしまうに違いない。

 

こういう思いがあって、作中で度々登場する大切な場所なのに、中川町を訪ねることはなかなか憚られた。幻の正体を暴くような気がしたからだ。

 

だから、思い切って菩提の滝の停留所でバスを降り、北山杉のまっすぐに、きれいに立ってるのを目にしたときは、その美しさにほんとに心がすうっとする思いだった。一瞬、今がいつかわからなくなりそうなほどの驚きがあった。

 

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だが、古都の世界のように、山肌に冬の花をほこる北山とは対照的に、中川のまちは作中とは大きく変わっていた。山仕事をする人の姿は無いし、北山杉の木造倉庫も、杉の白い肌よりもむしろ、ぼろぼろになった壁の方が目立っていた。もう30年は使われていないらしく、昔にしがみついたままの倉庫のあちこちを、時間が擦り切らしていた。

 

寂しいまちを歩いていると、地元の人に声をかけられた。古都を読んでここに来る人は多いが、年配の人ばかりで若い人は珍しいそうだ。歳をとると昔の美しかった頃の面影を探しに行きたくなるのだろうか。今のこのまちにそんな幻を背負わせるのは酷な話だと思った。

 

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再びバスに乗ってまちなかに戻る。中川町とは違って古都の面影はほとんどない。幻を顧みる隙のない京都の景色は、残念な気もしたが、少し頼もしい気持ちにもなった。

 

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今、こうやってもう一度中川町の写真を見返してみると、寒い中、山村を数時間うろうろしていただけなのに、なんだかとても豊かな、いい時間だったような気がしてくる。自分の気分なんて勝手なもんだなと思うし、こうして思い出や幻をもとめることも、勝手なものなのかもしれない。

 

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