東京の印象

久しぶりに地元の友達に会うと、決まって東京で暮らすのはどんな感じかと聞かれる。

東京で暮らしていると言っても、僕の生活の大半は大学とその関係のコミュニティで行われるので、結局大学生活の感想になってしまう。そう言うとなんだかみんな面白くなさそうな顔をする。

こういう期待のずれは地元の友達が東京に遊びにきた時にもっとはっきりと感じられる。

 

たいてい、東京らしいところに連れて行ってと頼まれるのだが、これがなかなか難しい。築地に行っても、浅草に行っても、渋谷のスクランブル交差点に行っても、東京への期待が満たされることはないような気がする。

 

東京見物の終わりには、よく都庁の展望室に行く。タダで遅くまで開いているからという実用的な理由の他に、東京を文字通り展望できるここからなら、期待する東京の何かを見つけることができるのではないかという思いが、足を運ばせる。

 

 

都庁の展望室からの眺望には、何度見ても圧倒されるものがある。地上を埋め尽くすビル群。どこまでが東京都でどこからが埼玉県なのだろうか。だが、この景色の前にはこうした疑問はあまり意味をなさないように思われる。どこまでも広がる東京、注ぎすぎた水がテーブルの上を浸していくような景色。

 

遠くを見ても、東京がよけいにぼんやりしてしまうだけな気がして、今度は足元に今まで見てきた東京の姿を探す。

すこしビル群をかき分ければ、スカイツリーや代々木公園を見つけることができる。

他には?さっきまで居た築地や渋谷はどこに行ってしまったのだろう。あの辺りの雑居ビルの集まりが渋谷だろう。というようなアタリをつけることはできても、渋谷の姿を捉えることは不可能である。渋谷は得体の知れない海の中に溶け出してしまっている。

 

結局、東京を見渡すために登った都庁の展望室からでも、東京への期待を満たす景色はおろか、東京の輪郭さえ見つけ出すことはできない。

 

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その点、東京の隣の横浜などは見物人にとってありがたいまちである。横浜についてほとんど何も知らなくても、赤レンガ倉庫、中華街といった、わかりやすい観光地やベイエリアの景色は、よそ者が横浜に対して抱いている漠然としたイメージを汲み取って、期待通りの、横浜にきた実感や意味を与えてくれる。

 

だが、東京はこういうふうに意味を与えてはくれない。東京にはなんでもあるけどなんにもないという言葉を耳にしたことがあるが、うまいこと言ったものだな。と思う。ぼんやりと眺めるだけでは、東京は無機質なビルの集合にしか見えてこない。東京は、解釈(あるいは、参加)をしないことには、期待通りの濃度の意味を与えてくれないのだ。

 

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こんなことを考えていると、今自分が馴染みのない図書館にいるような感じがしてくる。読みたい本がどこにあるかすぐにはわからないし、本が全部で何冊あるかなんてことは、とてもわかりそうもない。

とりあえず、何か本を手にとってパラパラとめくってみる。それを何冊か繰り返して、気に入った本を読み始める。そうすると自分が図書館にいることはもう気にならなくなる。図書館の印象はすぐに本の印象に追いやられる。読書に夢中になっている人は、図書館について語ることはないし、蔵書をいくら読んでも、図書館そのものをわかったことにはならない。